ciccioneの日記

30歳を過ぎて見切りで会社を退職した人間が、再び収入を得るような仕事に就けるまでの日々を記録していきたい。

初夏の夢

初夏にはよく夢を見る。きっと眠りが浅いからだろう。

何かに追われる夢、誰かと何か上手くいきそうな夢、人生最後の夢。

思わず独り言を言ってしまって起きることもある。

ただ、なぜだろう。どれも実現するような気迫がある。

もちろん、何もない一日を迎える。

そして朝を迎え、時と共にその夢の輪郭はぼやけていく。

年齢を3で割ってみるという考え方

会社を辞めるとなった時、普段からよくしていただいている方から教えていただいた話。

30過ぎてからの就職は難しいだろうな、特に優れたスキルがあるわけでもないし。まぁ、会社でまた勤める気はないのですが。と話をしていた時に、この言葉を聞いた。

当時の語り口調だとこんな感じ。

31歳(当時)を3で割ると10とちょっと。これを会社の就業時間に重ねて考えてみる。9時始業だから、31歳は10時ちょっと過ぎたくらいじゃない。10時くらいってどんな感じ?もうエンジンがかかってバリバリ働いてる?会議が入ってるかもしれないけど、まだ眠かったり、昨日の疲れを引きずってたりして、怠いなって思ってる時間じゃない?そんなもんよ。全然1日が始まったばかりで、ようやくこれからっていう程度の時間。だから30過ぎると難しくなるとか考えずに、人生まだ10時よ。何でもできんじゃん。

これはなかなか響く言葉だった。

確かに自分は定時出社していても、だいたい30分くらいはアイドリングの時間として費やし、そこからようやくメールを見たりするような会社生活を送っていた。そうなると10時って大したことではない。エンジンすらかかっていない。何ならフレックスを取ってしまえば、10時半までゆっくりできるのである。

ある程度の歳まで行ってから辞めると、人脈やスキルだがなければ、という前提がついてくるけど、もちろんその前提があった方がいいことは絶対的に正しいことだけども、何かを始めるに早いも遅いもないのかもしれない。

別にこの説が面白いところは、「何も始めるのが遅いわけではない」というところではなく、40歳半ばとかになれば13時過ぎくらい。仕事としては確かに午後は忙しいけども、若干満腹中枢が満たされて、ちょっと気持ちに緩みがでる。とか、60歳になれば20時なので、もう帰宅か残業の時間。そう考えると役員とか暇そうにしてんな、とか思ってたけど、もう帰宅しちゃってるんだもんな、って思えば割と納得する。もし役職につかれてる方で、時折偉そうなことを語ってくるようであれば、それは残業だから。人間観察と、人間関係の自分の中での落とし所が見つけやすいのである。

入社3年以内に辞めるということに関しても、その説でいけば通勤の途中で辞めているようなものである。何とも残念。通勤路の混雑具合が分かっただけで、頑張った就活をゼロにするのだから元が取れない。

不思議と納得する人生観。それが年齢を3で割るという考え方なのです。

超完全に受け売りな話ではあるものの、久々に思い出したので、忘れないように書いてみた。

扁桃腺というのはなぜこうも厄介なのか

今月2回目の風邪。1回目はただの風邪でラッキー。いや、風邪引くことはラッキーではないのだが。

この先週末はとうとう扁桃腺の腫れでKO。ほぼ毎月のように扁桃腺が腫れて高熱を出す。ここ最近の頻度は酷い。毎月のようになっている。先月は幸運にも腫れなかった。

病院に傘を杖代わりに行く。待ち時間は1時間。しんどいので診察室の奥のベッドで横にならせてもらう。そして、「腫れてるねぇ、やっぱ手術したら」という話に。

「ん〜、手術か、やっぱ。」と毎回思いながら、しんどいので抗生剤の点滴を打ってもらう。これで翌日くらいからようやく動けるようになる。

手術はなんやかんや痛いらしいし、あんまりオススメしないと他の医者は言うし、紹介状を書いてもらって一度総合病院に相談のつもりで行ったら、「じゃぁ、手術日いつにします?するかしないかはどっちでもいいですけど。」と手術前提で相談にならず。

結局保留。

10日間程度の入院生活は辛い。相部屋で睡眠薬を飲んで寝れるのか。自宅でもうまく寝れない時があるのに。なんてことも考えてしまう。

拘束の苦痛を取るか、毎度の高熱と喉の痛みを取るか。どうでもいいことが悩ましい。なぜ扁桃腺炎と言うのはこうも厄介なのだろう。

この夏も、やがてあの夏になる。

ちょっと作業が煮詰まってきたので、またコピーの話だけどブログを着手してみる。

以前も書いた味の素ゼネラルフーヅ(AGF)のコーヒーのコピー。中畑貴志さんが手がけたもの。

夏って、なんで開放的になる季節になのに、ふとセンチメンタルになる瞬間があるのだろうか、と思わされる。当たり前のように毎年やってきて、毎年のように過去になっていく夏。花火大会の時も、一瞬で散る姿を見るとちょっとセンチになる。

さて、誰目線で書かれたのだろうか。青春を謳歌する若者がふと思った言葉のようにも取れるし、お父さんが子供たちを見ながら思ったようにも思える。どちらかというと後者なのかな。お母さんにも取れる。きっと大人になり始めたら誰もが思う、普遍的な心を切り取ったものなのかもしれない。

お父さんだったら、昼下がり、一息入れようと思っている時に出かける様子の子供、出かけようと誘ってくる子供庭で遊んでいる子供を見ながら、いつまで自分の目の前でこの子たちが、思いっきり夏を楽しむ姿を見せてくれるのか。なんか束の間の一息を入れている時に、やってくるちょっとセンチな気持ち。そんな画が浮かぶ。1893年のコピーだから、何かと混沌としていた時代な記憶があるから、ほんとその一息いれるコーヒーの時に家族の様子に思いを寄せる感情が、ふわっと舞い込んでくるんだろうな。

毎日共にし、気分転換に飲むコーヒーだからこそ生まれる感情。だから一日一日を大切にしよう。この毎日飲むAGFのコーヒーと共に。

そんなメッセージのように感じる。これからの季節をちょっと先取りしたコピーを取り上げて見ました。

このコピーで商品を買わすとかではなく、ブランド想起の一番目に残すためのコピー。無理してAIDMAに当てはめるならMに訴求したコピーな気がする。

さ、整理ができたところで、午後の作業に取り掛かろ。

さよならしたばかりなのに、また、君に会いたくなりました。

こちら、1986年の牧野雄一さんが書いたファミリマートのコピー。

なんとも言えないまっすぐな青年のような言葉遣い。

ふとした時にちょっとしたものが欲しくなる。それも大抵”今”欲しい。そんな時は、だいたい夜で、当然お店は閉まっている。「24時間戦えますか」という時代に、すぐに必要なものが手に入らないなんて・・・そんな消費者の心の声に

「いえいえ、ファミリーマートは24時間幅広いラインナップでオープンしています」(勝手な想像の解釈ですが)

さっきノートを買いに行ったのに、今度は小腹が空いておにぎり買って、仕事や勉強が終わった暁には、ちょっと一杯飲みたくなってまたコンビニに。

もう買うものは買ったはずなのに、ちょっとしたら、また思い出したかのごとく買うものが出てくる。

そして気づいたら、笑顔で迎えてくれる店員さんに恋しちゃって、彼女に会いたいがためにコンビニ通いを始めちゃったりもしちゃって。お釣りをくれる時に添えられる手にちょっとときめいちゃったりする。

なんか単純にいつでも開いてます。じゃなくて、そんな人の心の動きも想像させる恋人間の会話のように仕立てたこのコピーは素敵ですね。

でも、多少不便だった方が幸せだったりもするんですけどね。時間に追われず、諦められて。

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タバコ全面禁煙ってホントにいいことなのだろうか。

最近、やたらコピーのことが多かったので、どうでもいいことも書いてみる。

別に政治に対する不満や思想なんてことは考えないで、一時期こんなニュースがあったので、思い出してちょっと書いてみる次第である。

なんでもかんでもが2020年がターゲットとされている中の一つ。タバコの全面禁煙。タバコは吸う側なので、悲しいことではあるが結構どっちでもいい。

そもそも相当仲良い人と飲みに行かない限りは、飲み会では吸わない。そして自分も吸うくせに人の煙に対しては臭いから嫌いという質。結構わがままな自分。

誰かテレビのコメンテーターの人も言ってたけど、条例で既に外でも吸える環境は少なくなってきた横浜は、屋外喫煙所の人口密集率が半端ない。そこからものすごい煙が発生しているから、結果としてそこの近くを通る人は結構しんどいことになるらしい。

吸い殻が回収されてないからか、それとも吸った人のマナーでちゃんと火を消さないからか、モクモクな状態。それが正しい姿なのかはいまいち謎。

禁煙のために海外の事例とかよく挙げられるけど、NYに行った時も禁煙の街だから「SMOKING FREE」とは至るところに書いてある。でも、逆に歩きタバコの天国である。というかそれが当然のようになっている。自分含めた観光客もそうしてたし。

頑張って正していくのが正義なのかもしれないけど、果たしてそれがホントにいい結果を産むのか。

まぁ、どう転んでも従わざるを得ない立場ではあるわけだけど、一番効果的なのはJTのあのハッとさせられる岡本欣也さんのコピーだと思う。

「たばこを持つ手は、子供の顔の高さだった。」

今のご時世、きっとみんな心のどこかで「迷惑」を認識している。

 

で、結局コピーの話になってしまった。。

 

 

母が恋した頃の夏に娘が近づいて行く。

コピライターの巨匠・仲畑貴志さんが書いた、味の素ゼネラルフーヅのコーヒーのコピー。(1988年)

コーヒーのほろ苦さというか、コーヒーの美味しさが分かるようになる年頃ってこれくらいの年齢なんだろうな。とちょっとセンチメンタルになるようなコピー。

コーヒーを毎日飲むお父さん、お母さん。とある夏の休日に、娘が一緒にアイスコーヒー飲み始めた。ガムシロップをちょっと入れて甘くして飲んで。きっと少女にとっては背伸びして、苦いと思いながらも飲んだコーヒー。

風がそよぎ、白いカーテンが揺れる。そんな姿を見て、お母さんがふと娘の成長を感じた、という画が浮かぶ。

食卓の真ん中にはAGFのコーヒーのボトルがいつもあって、家族の日々の変化を見守っています、といったようなメッセージなんだろう。

よくよく考えてみると、「娘が」という表現があるとお父さん目線のようにも感じる。でもそうなると「母が恋した」っていう表現に違和感を感じる。「妻が」じゃないんだ、っていう。逆にお母さん目線で見ても、やっぱり「母が」という表現ではなく、「ワタシ」という表現の方が合っているような気がする。ホントに自分のお母さんの恋をした頃を出してきたら、こんなおセンチな表現はできない。

そうすると、これってなんとなくコーヒー目線での切り口なように見えてくる。娘が物心がついた頃には生活の一部になっていた自分(コーヒー)を、娘も飲むようになってきた。生活の一部だからコーヒーにとっても親心があって、子供は娘になるんですね、きっと。

そんな娘も大きくなったな、と感じているお母さんを、側から見たコーヒーが、自分を買ってくれているお母さんの恋した夏に・・・ってまたちょっと思う。

家族の真ん中にAGFがある、そんな意味合いのことをすごく柔らかくした表現だなぁ。約30年の月日が経っても、送り手のメッセージを(勝手にではあるが)、読み手の自分が共感して受け取れるってすごいなって思う。

言葉の力おそるべし。

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