ciccioneの日記

30歳を過ぎて見切りで会社を退職した人間が、再び収入を得るような仕事に就けるまでの日々を記録していきたい。

雑記(こうして私は会社を辞めました)②

総務にはスキルがない。そうなのである。総務は便利屋だから。フットワークの軽さと人脈、マルチタスクの腕は上がる。でも数字では表せない。だから自分にどんなスキルがあるかと言われると、何も言えなくなるのである。その中でも嬉しいことに社内報をはじめとした広報業務につくことができた。よってもって上手いのかどうか分からないが飽きもせず今も文章を書いている訳である。

総務には6年いたので色々とやった(ような気がする)。法務、施設管理、稟議事務局、防災、会議体の管理、広報etc.

一部には“ミスター総務”と言われるぐらいまでいった。困ったことがあったらこいつに聞けという謎の引き継ぎもあった。

そして総務は季節労働者だ。6月には株主総会、12月には納会、3月はレイアウト変更といったようにムラがある。特に自分の業務の中で一番の掻き入れどきは、年度末の異動に伴うレイアウト変更だ。

これはもはや職人技に近い。各部署にニーズをヒアリングし、人数調整を行い、言い分を聴きながら、こちらの要望を通す。この行事のために日々円滑な関係を部署と築いていると言っても過言ではない。レイアウト図面や電話回線一覧、中期の人数を書き込んだ紙などを常に持ち歩いて社内を回る。

だからみんな自分たちの4月からの居場所を気にしてやたら声をかけてくるのである。

とまぁ、総務での業務をツラツラと書いてきたが、なぜ辞めたかという部分である。好きでもなかったけど、嫌いでもなかった前職の会社。辞めたいと思って辞めた訳ではないのである。

きっかけは、異動の内示だった。営業に戻る。しかも海外出張の多い部署。その時期自分の調子がまた悪くなっていたのである。不眠症に物忘れ。何千万円の家を個人に売るのに権利証を忘れたり、億単位の物件を他社に売るのに、組んだCFが間違っていたり、こちらも漏れなく契約締結の段階で権利証を忘れてしまったり。ウッカリを超えたミスが相次いだ。なかなか信用問題に関わるミスだ。

その結果、ADHD発達障害の一部)の薬が処方されたのである。可能性があるかもしれない、という前置きがあって。まさか自分がADHDなはずなんてない・・・と思っていた矢先も矢先、同日に内示を言い渡されたのである。発達障害かもしれないと言われたばかりの自分が、まさかの?的な。

内示を告げられた時はちょっと嬉しくなってしまった部分はある。でもそのあとにズーンとその日医者に告げられた事実が重くのしかかる。こんな状態の自分が異動してやっていけるのか。海外との案件でミスなくやれるのか。自信がどんどんとなくなっていく。

 その日からだいぶ悩んだ。内示を辞退するべきか、流れに身を任せ異動してみるか。異動さきの部署へは一応挨拶に行った。こういうものは、その先どうであれスピード勝負だ。ただ、追い討ちをかけるかのごとく引き継ぎのタイムテーブルが送られてくる。朝一から終日みっちりと一日各事業の説明が行われるというタイムテーブル。休み時間さえ、間5分といったように細かく刻まれている。

どうしよう・・・

そう、6年間何事もなく働いてきた訳ではなく、時にはその日に体調を崩し、急遽半休を取ることもあれば休むこともあった。睡眠薬を飲まないと眠れないし、飲んでも寝れないこともある。そして何より毎週通院しているのである。果たしてそんな自分が、また営業でやっていけるのか。日に日に不安だけが募っていく。

休職も実は2回しているのである。2度目は総務に来てから。休職明けのみんなの顔を見るのが辛い。接せられる態度もなかなかしんどい。ここに来て異動から逃げるように休職をするのか。いやいや休職という選択肢を後出しジャンケンのように言い出すのも、もう違う。(考えてみれば何も後出しでもないのだが)とてつもなく追い込まれた状態になった。

辞めよう。

追い込まれた末の結果が辞めるだった。あと会社人生30年近く、こんなことに振り回されるのだろうか。ジョブローテーションという名の下、自分の状態とは相反して事業部を転々とするのか。その先のことまでは考えられない。家で親にその話をした時も号泣した覚えがある。

内示から2週間後上司に告げた。「会社を辞めます」ちょっとは引き止められるかと思った。自分の状況は逐一上司には報告してた訳だし。でも建前上の引き止めだけで、考え直せということにはならなかった。即日部長へ話がいった。総務部長=人事部長である。人事に翌日には話が通る。

翌日部長とも面談があった。一応引き止めの話や、休職の話も出た。ただ、もう引きさがれる状態にはなかった。総務に残ることになっても辞めるのか、とも聞かれた。しかし放ってしまった弓はもう止めることはできない。もう3月に入って人事としても待っていられない状態である。「もう戻れません」そう告げた。なぜか涙が止まらなかった。予期もしない、自分でも意図しない自己都合での退職。

週末には退職届を書いていた。何枚も何枚も。キレイに書けるまで何時間もかけて。この1枚で10年間が0になる。一筆一筆に重みを感じる。書き終わる時にはぐったりしていた。

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翌週の定例MTGにて課のみんなに告げた。意外に反応は驚きではなかったが、自分的には泣きそうになった。悔いはやはりある。目はウルウル。でも自分より課長の方が声を詰まらせていたので、少し落ち着きを取り戻した。

送別会ももちろん開かれた。中には異動するものであり、退職とは知らずに色紙を書いてくれてる人もいた。なにせひっそりと辞める方向で進めていたから。ある先輩から熱い一言をもらった。自分の体調が一番だから、何も自分を攻めることではないし、その判断に誤りがあったとは思わない、といったような内容を。もう完全に涙腺崩壊である。

周りにとっては「?」ではあるが、やはり辞めたくて辞める訳ではなく、辞めざるを得なくなって辞めるとなると感情が抑えられなくなる。お酒の力もあった。もう戻れない。

あとはトントン拍子である。タイムリミットまで業務を淡々とこなすのみ。取引先とかお世話になったところには退職の連絡を入れながら。3月31日最終出社。この日で会社に行くのは最後である(レイアウト変更の指揮のため、週末に出社する予定があったが)。不思議な感覚だった。もう本当に終わりなんだという。

部署異動の人の挨拶を含め、恒例の挨拶の順が自分に回ってきた。何を言おうかはずっと考えてきたが、もう何を言ったかは覚えていない。とにかく泣かないように努めたことだけは覚えている。一部では本当に知らなかったようで驚きの声が上がっていた。そう、逃げるように辞めるわけだから。

週末はレイアウト変更。いつも通り6社ぐらいの業者を一気に回す。これも今日で最後か・・・

全ての作業を終えたあと身辺整理に入る。袖机いっぱいだった荷物も整理するとダンボール一個で済んでしまうのか。10年の会社生活も残るのはたった1個のダンボール。片付けながら1人しみじみする。でも晴れ晴れする部分もあった。もう体調のことを気にせず仕事をしなくていいんだという。

そして翌日1日だけ休み、有休消化でNYに旅立った。何する訳でもなく、ただただ友人宅でのんびり過ごすために。あのNYだけは忘れられない。

まぁ、こんな感じで私は会社を辞めました。ここまで書いてきた通り、全く次のあてもない退職である。突然やってきた人事異動によって玉突きのように押し出された退職。病気のことも引き金になった。丸腰で無職になったのである。

丸腰のまま辞めると1年経っても無職のままで今に至る。だから、もし今、今の仕事が嫌で辞めたいという人がいるのであれば、会社は極力辞めない方がいい。突然この言葉を言われても、と思うだろうが、今の生活を考えると辞めても得することはない。収入もなくなるし、人との繋がりもなくなるし。辞めるのではなく、違うところで自分の居場所を探すのが一番だろう。苦しいと思う人は辞めてもいいとは思うが、確実に次の当てを見つけてからがオススメである。

前回の営業時代の話はこちら

ciccione.hatenablog.com