ciccioneの日記

30歳を過ぎて見切りで会社を退職した人間が、再び収入を得るような仕事に就けるまでの日々を記録していきたい。

母が恋した頃の夏に娘が近づいて行く。

コピライターの巨匠・仲畑貴志さんが書いた、味の素ゼネラルフーヅのコーヒーのコピー。(1988年)

コーヒーのほろ苦さというか、コーヒーの美味しさが分かるようになる年頃ってこれくらいの年齢なんだろうな。とちょっとセンチメンタルになるようなコピー。

コーヒーを毎日飲むお父さん、お母さん。とある夏の休日に、娘が一緒にアイスコーヒー飲み始めた。ガムシロップをちょっと入れて甘くして飲んで。きっと少女にとっては背伸びして、苦いと思いながらも飲んだコーヒー。

風がそよぎ、白いカーテンが揺れる。そんな姿を見て、お母さんがふと娘の成長を感じた、という画が浮かぶ。

食卓の真ん中にはAGFのコーヒーのボトルがいつもあって、家族の日々の変化を見守っています、といったようなメッセージなんだろう。

よくよく考えてみると、「娘が」という表現があるとお父さん目線のようにも感じる。でもそうなると「母が恋した」っていう表現に違和感を感じる。「妻が」じゃないんだ、っていう。逆にお母さん目線で見ても、やっぱり「母が」という表現ではなく、「ワタシ」という表現の方が合っているような気がする。ホントに自分のお母さんの恋をした頃を出してきたら、こんなおセンチな表現はできない。

そうすると、これってなんとなくコーヒー目線での切り口なように見えてくる。娘が物心がついた頃には生活の一部になっていた自分(コーヒー)を、娘も飲むようになってきた。生活の一部だからコーヒーにとっても親心があって、子供は娘になるんですね、きっと。

そんな娘も大きくなったな、と感じているお母さんを、側から見たコーヒーが、自分を買ってくれているお母さんの恋した夏に・・・ってまたちょっと思う。

家族の真ん中にAGFがある、そんな意味合いのことをすごく柔らかくした表現だなぁ。約30年の月日が経っても、送り手のメッセージを(勝手にではあるが)、読み手の自分が共感して受け取れるってすごいなって思う。

言葉の力おそるべし。

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